遠野まつり

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60の団体が集う芸能の祭典 60の団体が集う芸能の祭典

遠野まつりの魅力は、暮らしに根付いた多種多様な郷土芸能団体が一同に集結する迫力、華やかさです。毎年60以上の団体が集い、自然と人との密接な関わりを表現する「しし踊り」や、五穀豊穣を祈る「田植踊」など、遠野の歴史ある芸能の数々が披露されます。ほかにも「南部ばやし」、「さんさ踊り」、「神楽」などが色鮮やかな衣装を纏って踊られ、神輿が繰り出し、遠野郷八幡宮境内の馬場では流鏑馬が奉納され、その賑わいと華やかさはまさに「芸術の祭典」です。人口27,000人弱の小さなまちにこれだけ多くの芸能が生まれた背景を知ることで、遠野まつりをより深く楽しむことができます。

山の暮らし、里の暮らし、まちの暮らしが生んだ祈りと感謝の表現
山の暮らし、里の暮らし、まちの暮らしが生んだ祈りと感謝の表現

北上山地の小盆地・遠野。
冬はマイナス20℃に達する非常に厳しい環境の中、
人々は耐え、生き抜いてきました。
その中で生まれた自然への感謝と祈り、そして生命力と力強さ。
遠野の郷土芸能の豊富さや鮮やかさ、躍動感にはこうした風土が背景にありました。

遠野の景色 遠野の景色
主な郷土芸能
神楽

神楽

神楽とは、神座を設けて神を招き、神の化身となって祈祷や託宣を行う芸能です。厄払いや清めの祈祷をしたり、五穀豊穣の祈りを捧げたりします。遠野の神楽は、神人(しんと)神楽と山伏神楽の系統で伝承されています。神人派は緩やかなテンポで優美さがあり、山伏派は速くて躍動感があります。遠野の郷土芸能の中で最も多くの伝承記録が残り、多様性があるのが遠野の神楽の魅力です。

南部ばやし

南部ばやし

江戸時代に遠野を治めていた遠野南部氏22代直栄は、遠野郷八幡宮を松崎町宮代から現在地に遷宮し、盛大に祭典を執行しました。その秋の八幡宮例祭に奉納するため、遊芸師に命じて京都の「祇園ばやし」を参考に遠野郷の特色を入れて生みだしたと伝えられている遠野独特の町方の郷土芸能です。お囃子は、笛、太鼓、つづみ、三味線が調和して美しく、衣装や踊りは、あでやかで優美です。

太神楽

太神楽

「オカメ倉松」という太神楽の名手が伝承に力を尽くし、今の大工町などに伝わっている町方の郷土芸能のひとつです。遠野では幕末の頃、伊勢から伝えられたと言われており、遠野城下の芸達者な人たちが太鼓や笛を持ち寄り集まって演じていたとされています。笛、大太鼓、小太鼓、手平鉦が生み出す軽快なリズムが特徴です。

しし踊り

しし踊り

およそ400年以上前に遠野に伝えられた、遠野を代表する芸能です。カンナガラと呼ばれるたてがみを着けたしし頭をかぶった踊り手「しし」と、刀などの道具を手に持つ踊り手が集団となって踊るのが特徴です。東北に広がる鹿踊は鹿の供養として始まったと言われますが、遠野では、人とししが対になって踊るため、「人と自然の対立と調和」を表現していると言われています。

田植踊

田植踊

いつ頃遠野に入ってきたかは明らかではありませんが、古くから農作物の豊作を祈り、収穫が振るわない年も農事を楽しく終えられるように念願するために踊られてきたものです。「種まき」や「苗取り」など、米を収穫するまでの作業や物語を踊りで表します。歌曲、舞い方ともに優雅で、笛、太鼓は明るい雰囲気です。

さんさ踊り

さんさ踊り

由来は諸説ありますが、一説には「さぁさ、さぁさ」と踊りを囃し立てる掛け声から「さんさ踊り」になったと言われています。遠野のさんさ踊りの多くは、大正時代以降に宮古市や花巻市などから伝えられました。素朴な中にも、きびきびとした動作は、熟練を要する踊りです。太鼓や笛の音と掛け声に合わせて、行列や輪になりながら踊ります。

遠野南部流鏑馬

遠野南部流鏑馬

建武2(1335)年に遠野(根城)南部4代・師行が青森県八戸市の櫛引八幡宮に奉納したのが始まりと言われています。寛永4(1627)年、南部直栄は八戸から遠野に移封し、寛文元(1661)年に馬場を造り櫛引八幡宮と同様に流鏑馬を奉納しました。介添奉行が「よう射たりや」と連呼しながら射手の後を追うのが特徴で、全国的にも南部流鏑馬でしか見ることのできない貴重な作法です。

遠野の郷土芸能
  • 南部ばやし

  • しし踊り

  • 神楽

  • 田植え踊り

  • さんさ踊り

  • 手踊り

  • 虎舞

  • 太鼓

  • 神輿

  • 遠野南部流鏑馬

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