遠野では現在60を超える芸能団体が活動しています。種類別にみると、しし踊り、神楽、太神楽、南部ばやし、田植踊り、さんさ踊り、虎舞、甚句踊り、百姓踊り、御祝、流鏑馬などがあります。なお、中断中のものを含めると全体で120団体がかつて存在していた記録が残っていますが、現在では聞き取りができず、文献にのみに名を残しているもの、あるいはかつて活動していたという話が記憶としてわずかに残っているものを含めると、その数は把握しきれないほど多くあると考えられています。このページでは、現在活動を続けている郷土芸能団体を紹介します。
神楽とは、神座を設けて神を招き、神の化身となって祈祷や託宣を行う芸能です。厄払いや清めの祈祷をしたり、五穀豊穣の祈りを捧げたりします。遠野の神楽は、神人(しんと)神楽と山伏神楽の系統で伝承されています。神人派は緩やかなテンポで優美さがあり、山伏派は速くて躍動感があります。遠野の郷土芸能の中で最も多くの伝承記録が残り、多様性があるのが遠野の神楽の魅力です。
およそ400年以上前に遠野に伝えられた、遠野を代表する芸能です。カンナガラと呼ばれるたてがみを着けたしし頭をかぶった踊り手「しし」と、刀などの道具を手に持つ踊り手が集団となって踊るのが特徴です。東北に広がる鹿踊は鹿の供養として始まったと言われますが、遠野では、人とししが対になって踊るため、「人と自然の対立と調和」を表現していると言われています。
建武2(1335)年に遠野(根城)南部4代・師行が青森県八戸市の櫛引八幡宮に奉納したのが始まりと言われています。寛永4(1627)年、南部直栄は八戸から遠野に移封し、寛文元(1661)年に馬場を造り櫛引八幡宮と同様に流鏑馬を奉納しました。介添奉行が「よう射たりや」と連呼しながら射手の後を追うのが特徴で、全国的にも南部流鏑馬でしか見ることのできない貴重な作法です。
由来は諸説ありますが、一説には「さぁさ、さぁさ」と踊りを囃し立てる掛け声から「さんさ踊り」になったと言われています。遠野のさんさ踊りの多くは、大正時代以降に宮古市や花巻市などから伝えられました。素朴な中にも、きびきびとした動作は、熟練を要する踊りです。太鼓や笛の音と掛け声に合わせて、行列や輪になりながら踊ります。
江戸時代に遠野を治めていた遠野南部氏22代直栄は、遠野郷八幡宮を松崎町宮代から現在地に遷宮し、盛大に祭典を執行しました。その秋の八幡宮例祭に奉納するため、遊芸師に命じて京都の「祇園ばやし」を参考に遠野郷の特色を入れて生みだしたと伝えられている遠野独特の町方の郷土芸能です。お囃子は、笛、太鼓、つづみ、三味線が調和して美しく、衣装や踊りは、あでやかで優美です。
「オカメ倉松」という太神楽の名手が伝承に力を尽くし、今の大工町などに伝わっている町方の郷土芸能のひとつです。遠野では幕末の頃、伊勢から伝えられたと言われており、遠野城下の芸達者な人たちが太鼓や笛を持ち寄り集まって演じていたとされています。笛、大太鼓、小太鼓、手平鉦が生み出す軽快なリズムが特徴です。
由来は諸説ありますが、一説には「さぁさ、さぁさ」と踊りを囃し立てる掛け声から「さんさ踊り」になったと言われています。遠野のさんさ踊りの多くは、大正時代以降に宮古市や花巻市などから伝えられました。素朴な中にも、きびきびとした動作は、熟練を要する踊りです。太鼓や笛の音と掛け声に合わせて、行列や輪になりながら踊ります。
いつ頃遠野に入ってきたかは明らかではありませんが、古くから農作物の豊作を祈り、収穫が振るわない年も農事を楽しく終えられるように念願するために踊られてきたものです。「種まき」や「苗取り」など、米を収穫するまでの作業や物語を踊りで表します。歌曲、舞い方ともに優雅で、笛、太鼓は明るい雰囲気です。
例年遠野まつりに参加する「遠野仙人太鼓」は、豊年万作を願い祈るような気持ちで打つ太鼓、収穫を終え豊作を喜び感謝の気持ちで打つ太鼓、時には怒りを表し荒々しく打つ太鼓、そして人間の心臓の鼓動に似た太鼓など、単純な音であるがゆえに誰にでも受け入れられ普及している和太鼓を叩き続けています。遠野の伝統芸能を目指して、伝統を大切にしながら新たな創造(創作)を重ねて現在の形になっています。
遠野郷の代表的な虎舞「暮坪虎舞」は、地域の貴重な文化として継承されています。ハシゴを直角に立て「虎」と「ササラスリ」が威嚇しあいながら、「ササラスリ」がハシゴを上る場面は、一番の見せ場です。また、虎に頭を噛まれると無病息災の御利益があるとされています。
結婚式や新築祝いなどで披露される小友町氷口地区に伝わる祝い唄で、市内では唯一の唄です。歌詞も旋律も異なる二つの唄(男衆の謡曲、女衆のまがき節)を大勢で同時に唄い、最後は同時に終曲する珍しい唄です。
結婚式などの祝いの席で披露される小友町鷹鳥屋地区に伝わる踊りで、市内では唯一の甚句踊りです。大正後期、現在の奥州市江刺区から師匠を招き、指導を受けたのが始まりで、一人甚句、組甚句などがあります。
建武2(1335)年に遠野(根城)南部4代・師行が青森県八戸市の櫛引八幡宮に奉納したのが始まりと言われています。寛永4(1627)年、南部直栄は八戸から遠野に移封し、寛文元(1661)年に馬場を造り櫛引八幡宮と同様に流鏑馬を奉納しました。介添奉行が「よう射たりや」と連呼しながら射手の後を追うのが特徴で、全国的にも南部流鏑馬でしか見ることのできない貴重な作法です。
今ではほとんど見ることができない機械化される以前の田植え、稲刈りなどの米作りの過程を踊りで表現する芸能です。遠野に伝わる百姓踊りは地域で生み出されたものや、花巻市東和町から伝わったものがあります。
遠野まつり51年の歴史を、過去の写真・映像とともに振り返ります